積読家の逆襲

私以外の人が書きえたものなんて無意味なんじゃないか.

田舎の中高生のミクロコスモス

 何気ない個人の回想録が私の誇大妄想への道を切り拓くことがありうる.

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ませりさんの記事を読んで自分の中学生から高校生の頃の音楽体験を思い出してみた.

私は表題にあるようなトイレでの「密輸」というものを経験していない.勿論新譜を買えるような余裕があったわけではない.好きなアーティストの CD は常に歌詞カードも含めて手元に置いておきたい願望があったため,レンタル落ちの商品や中古品を自転車で行ける範囲の店を巡って渉猟していたのである.*1

それでも限られたネットワークを駆使して音源を入手しようとしたこと,

持ち帰られたCDは,まずポータブルCDプレーヤーにセットされる.ライナーノーツを開き,イヤフォンで一曲ずつ丁寧に歌詞を読みながら聴く.その後MDに焼くなり パソコンに取り込むなりする」「手に入れた音源は大切に,何度もリピートして聴いた.歌詞も完璧に覚えた」「CDとライナーノーツを照らし合わせながら、アルバム1枚を通して聴く」

という経験はほぼ同じであった.自分の意思で音楽を聴き始めた頃は家族にも自分の趣向が知られるのが恥ずかしくて,共用の CD コンポではなく幼少期に英語の教材として使っていた変な形の CD プレーヤーにイヤホンを挿して自室に閉じこもり,「儀式」の途中で親から風呂に入れという知らせが来ようものなら酷く気分を害した.のアルバムを一つの世界像として捉え,抽象的な歌詞を何度も反芻して諳んじることができるまでに身体に染み込ませて,自分が体験したことに当てはめてそれを解釈しようとした.そんな解釈を話せる,擦り合わせることができるような人は周囲にいなかったがゆえにインターネットのファンサイトを巡って様々な人の解釈を読み,それらに反論することで更に自分の世界像を強固にしようとした.そんな自分の後ろ姿を想像してみると当時の音楽体験が宗教じみたものに思われてきた.

そしてふと「メノッキオも案外こんな感じだったのではないか」と思い至った.

 

 

チーズとうじ虫―― 16世紀の一粉挽屋の世界像 (始まりの本)

チーズとうじ虫―― 16世紀の一粉挽屋の世界像 (始まりの本)

 

 

 メノッキオ(ことドメニコ・スカンデッラ)とは十六世紀のイタリア,フリウリ地方に生きた粉挽屋の男のことである.この時代は宗教改革と印刷革命の直後であり,宗教上の諸問題や書字文化が民衆にも共有され始めたという時代背景がある.読み書きの能力を身につけたメノッキオは自らのネットワークを駆使して聖書を独自に解釈するようになる.粉挽屋の作業場である水車小屋や風車小屋は民衆が交流する広場の役割を果たしており,書籍の貸し借りをする,人々に自説を語ることで思考を整理するには都合の良い場所であった.ヴェネツィアの書店で聖書の解説書を買うだけの好奇心があり,教会に関わる当時の「教養人」との交流もあったようである.そして支配階級と従属階級の間を行き来する中で,前者の書字文化と後者の口頭伝承を混ぜこぜにした世界像を吹聴するようになる.

私が考え信じるところでは,すべてはカオスである.すなわち土,空気,水,火のすべてが渾然一体となったものである.この全体は次第に塊になっていった.ちょうど牛乳からチーズができるように.そしてチーズの塊からうじ虫が湧き出るように天使たちが出現したのだ.そして至上の聖なるお方は,それらが神であり天使であることを望まれた.これらの天使たちのうちには,それ自身もこの塊から同時に創造された神も含まれている...

 このような世界像を自らの頭の中から引き出した挙句メノッキオは異端審問にかけられ,最終的に火あぶりの刑に処せられる.

 

 

ニーチェの『神は死んだ』のインパクトが日本人には実感としてわからない」と聞いたことがあるが,確かに西欧の人(勿論これも一枚岩ではない)にとっての神(あるいは宗教)とは何なのかを理解するのは容易ではない.リュシアン・フェーヴルが「現代のわれわれが,(中略)温室の産物だということを肝に銘じて忘れまい.十六世紀の人間は吹きっさらしにされていたのである」*2

と言ったように時代まで異なるとなれば安易な共感は禁物である.しかし十六世紀のイタリアという時代的・地理的背景を把握して,メノッキオが読み,書き,語ったものを整理しても判然としないこと,つまり彼が世界をどうみていたのかということ,そして異端審問にかけられてもなお自説を展開するのを止めないまでに彼の信仰を駆り立てたものを理解しようとするなら最後は想像するしかないのである.*3

 

イタリアの田舎で単調な日々を送っていたメノッキオが聖書に耽溺し,毎晩その声を聞きながら反芻することで自らの世界像を作り上げ,周囲に語ることを生きがいとしていたのなら,聖書を CD に置き換えれば私がやっていたこととそう変わらないのではないか.勿論これは妄想の域を出ることではないし確かめようのないことである.しかし再びメノッキオの言葉を借りれば

猊下,各々のものは自分の信仰がもっともすぐれていると思っているのですが,どれがもっともすぐれているかは知ることができない,と私は考えているのです

 

仮に今の中高生がこうして聖書のように CD を聞く経験ができていなかったとすれば,つまりこのような音楽へのアクセスの仕方が私を含む世代に特有のものだったとすれば,実に得難い経験をしたことになる.

 

 

最後に私がなぜメノッキオ,ひいてはギンズブルグの『チーズとうじ虫』に心を動かされたのかを書いておかねばならない.時代の中心から外れた田舎に住む限られたネットワークしか持たないものが書物を自らの偏見に塗れた解読格子を通して読み,そこから自分の頭で考えて世界像を形成したことが『チーズとうじ虫』という大規模な洞察への道を拓いたということは,何物にもなれなかった自分にとって希望に他ならないからである.そして私が今回の記事でやったこともまたメノッキオが聖書に対してやったことと同じ,つまり自説と照応させながら『チーズとうじ虫』を解読格子を通して再読したのである.

お前さんは学者でもないのにそのようなことについて議論して何の役に立つのかね

メノッキオが議論をふっかけた靴屋に言われた言葉である.しかし私の話が何か新しい道を開くきっかけになる可能性が少しでもあるとするならば,それは書くこと,語ることを止める理由にはならないのである.

 

*1:考えてみるとこれは自分の今の書籍に対するスタンスと同じである

*2:

 

フランス・ルネサンスの文明―人間と社会の四つのイメージ (ちくま学芸文庫)

フランス・ルネサンスの文明―人間と社会の四つのイメージ (ちくま学芸文庫)

 

 

*3:そう思うと実際にウィーンで貧乏生活をすることで革命当時の大衆の視点を理解して実際に見たかのように歴史を語った良知の力量は空恐ろしい

 

青きドナウの乱痴気 (平凡社ライブラリー)

青きドナウの乱痴気 (平凡社ライブラリー)

 

 

蔵書というケイパビリティ

 読みたい本があるとき借りて済ませるのは三流,買うのは二流,一流は既に本棚に置いてある.

 

 そう思うようになったきっかけはサークルで勉強会をすることになったときのことだ.話し合ってテキストを決め,数日後そのメンバーである友人にテキストを買ったかどうか聞いたら「なんか本棚に置いてあった」と返ってきたから恐れ入ったものだ.夜中に突然ある本が読みたくなるというのはまりないかもしれないが,そのとき読んでいた本に引用されている文献がどうしても読んでみたくなったり,Twitter で話題になっていた事柄について昔読んだ本で触れられていたはずだから正確な形で参照したいということはよくあることだ.当然夜中だから図書館 (秋田の山奥には 24 時間開いている大学図書館があるというが...)も書店 (この界隈にもかつて丸山書店という深夜二時まで開いてる書店があったがあえなく出版不況の波に飲まれてしまった)も開いていないし,開いていたところで蔵書があるとは限らない.Amazon プライムに加入していたとしても注文して届くのは早くて翌日だ.せっかく芽生えたこの衝動も次に陽が昇るときにはドラキュラのごとく消え失せてしまうかもしれない.そんなときに縁となるのは自分の蔵書だけだ*1

 

 このような蔵書の効用は「ケイパビリティ」という言葉で説明できるかもしれない.この概念については最近手にした馬淵浩二『貧困の倫理学』で知ったのだが,同著を参考に私の理解した範囲で簡単にまとめておこう.

 

貧困の倫理学 (平凡社新書)

貧困の倫理学 (平凡社新書)

 

 

ケイパビリティ (capability) とは個人がなしうること,なりうることの可能性の幅であり,人の生における選択肢の幅とも言える.たとえば最貧国で幼くして家計を支えなければならないほど貧しい家庭に生まれた子供には「教育を受ける」という選択肢を選ぶことは困難であるが,そのような選択肢を与えることができればそれによって就業のチャンスが増える.そして彼・彼女が人生を自らの意志で決定する可能性が拡大することになる.ケイパビリティに避け難く関連するとともに厳密に区別されるべき「機能」と「財」のふたつの概念と比較するともう少し意味が明確になるだろう.「機能」とは「食事をする」「人と会話する」「健康である」「愉快である」というような人間の生における動作や状態である.ある人の人生がどのようなものであるかはこの機能の達成の度合いによって異なる.この機能との関わりから言えば,ケイパビリティは「機能として実現するに先立って与えられている潜在的可能性」である.たとえば識字教育の環境がととのっている国で生まれた人には「識字のケイパビリティ」が与えられていることになる.その人が実際に識字教育を受けて読み書きができるようになった時にはじめて識字は機能として実現する.「財」はなにかをなすための金銭的・物質的な手段であり,食料や衣服,それらを購入するための所得がこれにあたる.自転車という財が与えられれば一般には移動というケイパビリティが与えられる(し,それを実際に利用すれば通学や人と対面などの機能が実現しうる).しかし足の不自由な人は自転車を与えられても移動のケイパビリティは与えられないことになるので,同一の財がすべての人に同一のケイパビリティを与えるわけではない(そして単純な所得の上昇や財の供給ではなく選択肢の幅,ケイパビリティの拡大こそが同著で貧困問題における開発援助の目標だというのが同著で紹介されているアマルティア・センやマーサ・ヌスバウムの立場である).

 

 蔵書(というよりは書籍(財)が家にあってそれを好きな時に開くことができる環境と言うべきか)は個人が知りうることの可能性の幅であり,人生における選択肢の幅とさえいえる.当然書籍を与えられて本棚に並べた時点では本の内容を理解した状態(機能)は実現しないがそのケイパビリティはあるということになる.また自転車が足の不自由な人にケイパピリティをもたらさないように書籍も読むべき人(その書籍の内容に対する知識欲およびそれを理解できる素養がある人)以外にはケイパビリティをもたらさない.しかし最初に手に取った時は理解できなかった,ちゃんと読む気がしなかった本でも本棚に置いておけばいつか読むべき時が来るかもしれない.だからひたすら定評のある本,なんとなく気になった本を購入して本棚にならべておけばケイパビリティは拡大すると言えるのではないだろうか.

 当初は外国語ができなかったけど習得したから読めるようになった,という場合はもちろんのこと昔なんとなく買った本の背表紙がふとしたきっかけで急に光り出すということもありえるのだ.今回言及したヌスバウムの著書がまさにそうだった.ヌスバウムを知ったきっかけは実は思い出せないのだが,『正義のフロンティア』(神島訳)という著作が 欲しいものリストに登録された日付から察するに,倫理学の授業で何かしら言及があったのではないかと思う.この本は値段的になかなか手が出ずいまだに欲しいものリストにあるのだが,その後のルネの岩波書店フェアでリーズナブルだからという理由で購入され,本棚で一年半待ち続けてようやくその時を迎えたのが『経済成長がすべてか?』(小沢・小野訳)である.

 

 

『貧困の倫理学』を読んでヌスバウムの開発援助論に興味を持ったが,『経済成長〜』はそのトピックについて体系的に論じているわけではない.しかし副題に「デモクラシーが人文学を必要とする理由」とあり,これは最近話題になった「人文学部廃止論」を考える上で御誂え向きだと考えた.現在読書中の本であるので(そしてこのブログのコンセプトもあって)詳しいレビューはできないが,これからの人文学(部)のあり方を考えたい人にはお勧めしておきたい.ちなみに訳者の一人である小野先生が『ヒューマニティーズ 文学』を執筆する際に大いに影響を受けた本でもあるという.

 

文学 (ヒューマニティーズ)

文学 (ヒューマニティーズ)

 

  さて,蔵書というケイパビリティによって可能になることには一度読んだ本を売ったり捨てたりしないで置いておくことでいつでも読み返せる.というのもある.「昔読んだ本を読み返したら全く違う印象を受けた」というのはよく聞く話だが,私もそのような本が一冊ある.ブッツァーティタタール人の砂漠』(脇訳)である.

 

タタール人の砂漠 (岩波文庫)

タタール人の砂漠 (岩波文庫)

 

 今まで読んだ中で最高の小説を一冊挙げろと言われたら私は迷わずこれを選ぶ.経緯について今回これ以上は語らない.本には読むべきときがあるのと同様に語るべきときもまたあるのだ.

 

 そういえば一年前のこれから夏休みという時期に,冒頭でふれた友人とルネで出会って「何かいい小説ないですか」と聞かれて勧めたのもこの本であった.彼はこの本を読んだだろうか.そして今どうしているだろうか.

  

*1:よくよく考えるとここで述べたことは電子書籍によっても解消できるかもしれないが利用する気はあまりない,というかいくつか無料のものを持っているが全く活用していない.その理由についてもおいおい記事にできればと思う.

向日葵

 山あいの曲がりくねった道を走っている.私の 10 メートルほど先を走っているのは A だ.一緒にサイクリングに行こうと言ったはいいもののお互い特に行きたい場所もなかったので私たちの住む市街地の北の方に伸びる道をひたすら進むことにしたのだ.

 

 舗装された二車線の道路は周囲より少し高くなっており,市街地を抜けてしばらくの間は道沿いにぽつぽつと集落があるのを見下ろすことができた.集落の周りは田んぼのようだった.所謂日本の古き良き田園風景というものだろうか.

 

 でもどことなく寂しい感覚がある.人の姿が見当たらないのだ.田畑の整然とした様子からして長期間放棄されているようには見えないが,逆に人の手が加えられていることも想像できなかった.風が吹いても揺れることなくただ屹立する稲穂の向こうには一様に同じ色をした山々があり,山の上に広がる空は入道雲の氷塊によって凍りついたように白ばんでいた.

 

 引き返そう.と, A に声をかけようとしたが彼との距離はそれが届かないほどに広がっていた.追いつこうとしてスピードを上げるうちに道沿いにあった家屋は全く見られなくなり,墓標のような稲穂が広がるだけの風景になった.

 

 色を失ったその光景の中でただ一つ動いているものがあった.稲穂の中から節くれだった茎を伸ばしてそれは蠢いていた.血だまりのような暗い赤色の花びらに囲まれて,無数の黒い種が中心に吸い込まれるように螺旋を描いていた.

 

 我に返って前を見ると,そこで道路は一車線となっている.そのずっと先に A の後ろ姿が見えたが,私が呼ぶ間もなくそれも見えなくなった.

一人読書会あるいは平行読書会および魔術について

 ご無沙汰しておりますが私は更新が滞ったことを謝ったり嘆いたりしたくないので悪しからず.過ぎた時を嘆くのは無駄だって,何か古代ギリシアの詩人とかも言ってたような気がする.

 

 相変わらず積読の山が虚空へと伸びていくばかり読書は遅々として進まない.今やらなきゃいけないことを優先しなければいけないのは止むを得ないとしても,数年後の逆襲のためには今からこの気詰まりな山をいくらかでも切り拓いていく必要がある.どうやったらコンスタントに読み進めることができるだろうか.

 そうだ,読書会をやろう.しかし読書会をやるためには①テキストあるいはテーマを決め,②関心をともにするメンバーを集め,③日程・場所・内容などを慎重に調整する必要がある.とっつきやすいテーマであれば人も集まるし具体的な内容も話していればまとまってくるだろう.しかし私の今の関心ごとは広く耳目を集めるようなものではない.さらに仮にメンバーが集まったとしてもおそらく時と場所をともにするのは不可能である.

 そんな私にお誂え向きなのが一人読書会である.やり方はトッテモカンタン.まず自分の独断と偏見に基づいてテキスト・テーマを決定する.それに基づいて「◯◯読書会」あるいは「××研究会」と名前をつけるとそれなりに恰好がつく.続いて告知.読書会の時間・場所・そしてテキストの該当箇所を予め Twitter などで告知する.一人だからメンバーを集めも時空間の指定も必要ない筈なのだがこれが結構大事なのだ.というかこれをやらないと一人で本を読んでるのと同じになってしまう.時間と場所を指定することで当日読む気運が高まっていなくても実際その場に行くことで集中力を高めることができるようになる.さらに告知しておけばそれが一種の約束になるので守らないと周囲の人にこいつは木偶の坊なんじゃないかと思われる可能性がある.ただし,守らなくても相手 (誰?) に迷惑がかかるわけではないので予定が入ってしまったら遠慮なく休会にすればいい.そして読み終わったら内容についても同様に報告をする.アウトプットの行為自体によって勉強した内容の定着をはかるとともに動もすれば承認欲求を満たすこと,さらに周囲の人の関心を呼び起こして勉強会に誘うことが可能になる.

 さて,ここでメンバーが見つかったとしてもおいそれと普通の読書会に移行するのは味気ないので(というかそれは基本的にできないという前提なので)「平行読書会」というものを考えてみたい.一般的な読書会はテキストの章ごとに担当者を決めて順に発表するという形式であるが,平行読書会では同じのをやってもしょうがないので同じテーマで別々のテキストを指定する.興味あるテーマだから買ってみたけどあまり読む気しないなあという積読本を指定して相手にやってもらえれば願ったり叶ったりである(相手の気持ちは知らない).お互いのペースで読んで章ごとに一人の時と同様に報告をする.相手が読んでいないことが前提になるので,ある程度の共有知識は前提とするにしても簡潔でわかりやすい要約を作成することが求められる.相手はそれを読んだ上で質問・感想をコメントする.時間の制約がないのでここでなされた質問に対する回答を充分時間をかけて整理することができるのも平行読書会のメリットかもしれない.最後に,全員が一冊読み終わったところで一度だけ一同に会する時間を作って美味しいケーキでも食べながら比較検討するのも悪くない.

 (ここで紹介した「一人読書会」に関して示唆を与えてくれたのは七草さんの記事

一枚: 読書会のご案内

である.記して感謝したい)

 

 じゃあ,まずは一人読書会するよ.

 名前はどうしようか.最近錬金術について Twitter でうにゃうにゃ言ってるけど,錬金術に限らず「非科学」「オカルト」とされているものに心が傾いている.しかし「錬金術勉強会」だと金儲けみたいだし「オカルト研究会」を名乗ろうものなら胡散臭いことこの上ない(英語の "Occult" と日本語の「オカルト」の意味のギャップにはかなり残念なものがある).このテーマに関して Oxford Univ. の A Very Short Introductions シリーズを探してみると最も近いのは "Magic" である.

 

 

Magic: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

Magic: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

 

 

 ということで「魔術史読書会」にしようと思う.「魔術」という日本語は "magic" と比べて意味のズレがあるが丁度いい日本語がないので次善の策としてこれを用いる.ただの「魔術」ではなく「魔術史」としたのは魔術と呼ばれるものの体系だけではなくそれが生まれ発展していった歴史的・社会的背景についても焦点を当てたいという意識による.「魔術」というものは我々から切り離されたものではなく現代の我々の日常の中にも位置づけられるものなのではないかと私は思っている.現在も魔術信仰は存在するし,それが深刻な事件を巻き越していることは少し世界のニュースを検索すればおわかり頂けるだろう.それらにしてもを「非科学的」だとか「教育の不足」と言って片付けてしまうのはあまりにも惜しいし,そんな見方をしているうちは解決されることはないだろう.Paul Feyerabend "Against Method" の言葉を借りれば "There is no idea, however ancient and absurd, that is not capable of improving our knowledge" 「いかに古く馬鹿げたものであっても我々の知識を改良する能力を持たないものはない」のである.

 

Against Method

Against Method

 

 

 少し脱線したが読書会としては科学と魔術の間にほとんど境界がなかった西洋の中世からルネサンスを扱ったこれを取り上げようと思う.

 

魔術的ルネサンス―エリザベス朝のオカルト哲学

魔術的ルネサンス―エリザベス朝のオカルト哲学

 

 

  思いつきで始めたものなのでテキストについては今後変える可能性があるがとりあえず初回はこれでやります.というわけで第一回魔術史読書会のお知らせです.

 

日時: 6/2 9:00〜

場所: どこかしらのカフェもしくはカフェめいたところ

内容: フランシス・イェイツ『魔術的ルネサンス』(内藤訳)の冒頭から第四章まで

 

 万が一興味を持った方がいらっしゃいましたら Twitter @cacapa_i までご連絡ください.

 

本を贈る

 本を贈るという行為は一種の暴力だと思う.自分が読んで心から素晴らしいと思った本でも相手にとっては毒になるか薬になるかわからない.自らの一手で相手の思想が変わりうる,そんな権利があるのかどうか.ある哲学者の言葉を借りれば,啓蒙や教育は「本質的に暴力」であり,「余計なお世話」なのである.本を贈る人は贈られる人に直接的に啓蒙をするわけではないが,贈られた人は「わざわざ贈ってもらったのだから読まなきゃいけない」,更に言えば「その上で何かしらリアクションをしなければならない」と考えてしまうかもしれない.そうなってしまえば相手にギプスをはめて矯正しようとするのと同じである.そして,そのような意識のもとで行われる読書体験は実に味気ないものであろう.

 

 本は読むものであって読ませるものではない.そもそも本との出会いは巡り会いなので他人に教唆されるようなものではないし,たのまれたわけでもないのに本を贈るというのは,畢竟贈る側の自己満足でしかない.高級マカロンをあげれば人は 100 % の確率で喜ぶのにあえて本なんぞを選ぶ必要はないのである.本を贈ろうと思うなら他人の心を動かそうとする自らの傲慢さを自覚しなければならない.逆に言えば本を選ぶこと自体を一種の娯楽として楽しめるような人じゃなければやる意味はない.

 

 これらを踏まえた上でもう少し具体的に注意点を列挙してみよう.

・役に立つ本を選ばない

役に立つ本,特に自己啓発本やハウツー本を贈るのは人として最も恥ずべき行為の一つである.前者の暴力性ついてはもはや説明するまでもないだろう.後者については,ハウツー本の類は「役に立つ」ことがアイデンティティであるがゆえに役に立たなかった場合はただのゴミ.本を読むのに費やされた時間は水泡と消え,残るのはメモ帳にもならない紙くず.相手がそれに火を点けて投げつけてきても甘んじて炎に身を包まれるほかない.

・読まれることを期待しない

相手に本を贈るだけでも十分厚かましい,いわんや読まれることを期待することをや.いい本はちゃんと読まなくても,本棚に置いておくだけで効用がある.いっそのこと表紙やタイトルの存在感だけで決めてしまうのも悪くない.勿論渡す時に「読まなくていいよ」と付け加えるのを忘れずに.

・相手が知ってそうな本を選ばない

相手がもとから興味を示してた本,普通に過ごしていればそのうち手に取りそうな本をわざわざこちらからプレゼントしても意味がない(尚,今回の話は Amazon で相手が公開している欲しいものリストから本を選ぶような場合は対象としていない).一方で相手が全く興味を示さないような本を選ぶわけにもいかない.そうなると私が本選びに費やした時間と身銭は水泡と(略).世に数多ある良い本の中からその一冊を選ぶという必然性がなければならない,というのは過言だが何故それを選んだのかを明瞭に説明できなければならない.相手の守備範囲外だけどその場で見送ってしまうような本塁打でもない二塁打(あわよくば三塁打)を狙うのが本を贈る行為の醍醐味である.

 

 先日私の大学で卒業式があり,サークルの後輩がめでたく門出を迎えた.卒業式の翌日に最後の分科会をすることになったので,ふと思い立って書店に足を運んだ.今年度はサークルとしての追いコンを行わなかったので,餞としてプレゼントだけでも贈ろうと思ったのである(無論,私が本選びを楽しみたかったというのもある).経済学部で,一緒に経済思想史の分科会を開催し,天文サークルと兼部していた後輩である.それゆえに経済学および思想史および宇宙に関連するものを選ぼうと思った.さて,マッテオ・モッテルリーニという学者がいる.ベスト・セラーになった『経済は感情で動く』の著者であり,名前は知らなくても書店で平積みされているこの表紙を見たことがあるという人は少なくないのではないだろうか.

 

経済は感情で動く―― はじめての行動経済学

経済は感情で動く―― はじめての行動経済学

 

 無論,こんなベタな本あげるわけがない.この著者は邦訳されている本がこれ(および姉妹本の『世界は感情で動く』)しかないので行動経済学者だと最初は思っていたのだが,実際は科学史・科学哲学分野でも業績がある人物である.私は科学哲学者(本人はそう言われるのは嫌がっているようだが)のポール・K・ファイヤアーベントが好きなのだが,「科学的方法論」の妥当性について彼と彼の論敵であるイムレ・ラカトシュとの往復書簡をまとめた "For and Against Method" という本の編者がモッテルリーニ氏であったことを知って驚いた覚えがある.

 

 

For and Against Method: Including Lakatos's Lectures on Scientific Method and the Lakatos-Feyerabend Correspondence

For and Against Method: Including Lakatos's Lectures on Scientific Method and the Lakatos-Feyerabend Correspondence

 

 そしてこの本の冒頭でエピグラフとして引用されるのがイタリアの小説家イタロ・カルヴィーノの言葉である.全文引用すると,

 

To my parents

 

Were I to choose an auspicious image for the new millennium,

I would choose that one: the sudden agile leap of the philosopher who raises himself above the weight of the world, showing that with all his gravity he has the secret of lightness

 

訳には自信がないのでここでは控えるが,これからくる時代に驚くべき思考的な跳躍力を持った哲学者が現れることを望んでいることが読み取れる.そしてここにみられるようなカルヴィーノの宇宙への想像力の結晶と言うべき作品こそ私が今回プレゼントとして選んだ『柔らかい月』である.

 

柔かい月 (河出文庫)

柔かい月 (河出文庫)

 

  経済学と思想史と宇宙の接点にいた彼なら私がこれを読んだところで到達できないようなところに跳躍できるような気がしないでもない.

 

 最後に,本を贈るという行為に伴う暴力性を解消する方法がある.お互いに本を交換するのだ.あまり知られていないようだが毎年 4 月 23 日は「サン・ジョルディの日」と言われ,本を贈る日とされている.もっと人口に膾炙して本を交換する風習が広まればいいのになと思う.