積読家の逆襲

私以外の人が書きえたものなんて無意味なんじゃないか.

蔵書というケイパビリティ

 読みたい本があるとき借りて済ませるのは三流,買うのは二流,一流は既に本棚に置いてある.

 

 そう思うようになったきっかけはサークルで勉強会をすることになったときのことだ.話し合ってテキストを決め,数日後そのメンバーである友人にテキストを買ったかどうか聞いたら「なんか本棚に置いてあった」と返ってきたから恐れ入ったものだ.夜中に突然ある本が読みたくなるというのはまりないかもしれないが,そのとき読んでいた本に引用されている文献がどうしても読んでみたくなったり,Twitter で話題になっていた事柄について昔読んだ本で触れられていたはずだから正確な形で参照したいということはよくあることだ.当然夜中だから図書館 (秋田の山奥には 24 時間開いている大学図書館があるというが...)も書店 (この界隈にもかつて丸山書店という深夜二時まで開いてる書店があったがあえなく出版不況の波に飲まれてしまった)も開いていないし,開いていたところで蔵書があるとは限らない.Amazon プライムに加入していたとしても注文して届くのは早くて翌日だ.せっかく芽生えたこの衝動も次に陽が昇るときにはドラキュラのごとく消え失せてしまうかもしれない.そんなときに縁となるのは自分の蔵書だけだ*1

 

 このような蔵書の効用は「ケイパビリティ」という言葉で説明できるかもしれない.この概念については最近手にした馬淵浩二『貧困の倫理学』で知ったのだが,同著を参考に私の理解した範囲で簡単にまとめておこう.

 

貧困の倫理学 (平凡社新書)

貧困の倫理学 (平凡社新書)

 

 

ケイパビリティ (capability) とは個人がなしうること,なりうることの可能性の幅であり,人の生における選択肢の幅とも言える.たとえば最貧国で幼くして家計を支えなければならないほど貧しい家庭に生まれた子供には「教育を受ける」という選択肢を選ぶことは困難であるが,そのような選択肢を与えることができればそれによって就業のチャンスが増える.そして彼・彼女が人生を自らの意志で決定する可能性が拡大することになる.ケイパビリティに避け難く関連するとともに厳密に区別されるべき「機能」と「財」のふたつの概念と比較するともう少し意味が明確になるだろう.「機能」とは「食事をする」「人と会話する」「健康である」「愉快である」というような人間の生における動作や状態である.ある人の人生がどのようなものであるかはこの機能の達成の度合いによって異なる.この機能との関わりから言えば,ケイパビリティは「機能として実現するに先立って与えられている潜在的可能性」である.たとえば識字教育の環境がととのっている国で生まれた人には「識字のケイパビリティ」が与えられていることになる.その人が実際に識字教育を受けて読み書きができるようになった時にはじめて識字は機能として実現する.「財」はなにかをなすための金銭的・物質的な手段であり,食料や衣服,それらを購入するための所得がこれにあたる.自転車という財が与えられれば一般には移動というケイパビリティが与えられる(し,それを実際に利用すれば通学や人と対面などの機能が実現しうる).しかし足の不自由な人は自転車を与えられても移動のケイパビリティは与えられないことになるので,同一の財がすべての人に同一のケイパビリティを与えるわけではない(そして単純な所得の上昇や財の供給ではなく選択肢の幅,ケイパビリティの拡大こそが同著で貧困問題における開発援助の目標だというのが同著で紹介されているアマルティア・センやマーサ・ヌスバウムの立場である).

 

 蔵書(というよりは書籍(財)が家にあってそれを好きな時に開くことができる環境と言うべきか)は個人が知りうることの可能性の幅であり,人生における選択肢の幅とさえいえる.当然書籍を与えられて本棚に並べた時点では本の内容を理解した状態(機能)は実現しないがそのケイパビリティはあるということになる.また自転車が足の不自由な人にケイパピリティをもたらさないように書籍も読むべき人(その書籍の内容に対する知識欲およびそれを理解できる素養がある人)以外にはケイパビリティをもたらさない.しかし最初に手に取った時は理解できなかった,ちゃんと読む気がしなかった本でも本棚に置いておけばいつか読むべき時が来るかもしれない.だからひたすら定評のある本,なんとなく気になった本を購入して本棚にならべておけばケイパビリティは拡大すると言えるのではないだろうか.

 当初は外国語ができなかったけど習得したから読めるようになった,という場合はもちろんのこと昔なんとなく買った本の背表紙がふとしたきっかけで急に光り出すということもありえるのだ.今回言及したヌスバウムの著書がまさにそうだった.ヌスバウムを知ったきっかけは実は思い出せないのだが,『正義のフロンティア』(神島訳)という著作が 欲しいものリストに登録された日付から察するに,倫理学の授業で何かしら言及があったのではないかと思う.この本は値段的になかなか手が出ずいまだに欲しいものリストにあるのだが,その後のルネの岩波書店フェアでリーズナブルだからという理由で購入され,本棚で一年半待ち続けてようやくその時を迎えたのが『経済成長がすべてか?』(小沢・小野訳)である.

 

 

『貧困の倫理学』を読んでヌスバウムの開発援助論に興味を持ったが,『経済成長〜』はそのトピックについて体系的に論じているわけではない.しかし副題に「デモクラシーが人文学を必要とする理由」とあり,これは最近話題になった「人文学部廃止論」を考える上で御誂え向きだと考えた.現在読書中の本であるので(そしてこのブログのコンセプトもあって)詳しいレビューはできないが,これからの人文学(部)のあり方を考えたい人にはお勧めしておきたい.ちなみに訳者の一人である小野先生が『ヒューマニティーズ 文学』を執筆する際に大いに影響を受けた本でもあるという.

 

文学 (ヒューマニティーズ)

文学 (ヒューマニティーズ)

 

  さて,蔵書というケイパビリティによって可能になることには一度読んだ本を売ったり捨てたりしないで置いておくことでいつでも読み返せる.というのもある.「昔読んだ本を読み返したら全く違う印象を受けた」というのはよく聞く話だが,私もそのような本が一冊ある.ブッツァーティタタール人の砂漠』(脇訳)である.

 

タタール人の砂漠 (岩波文庫)

タタール人の砂漠 (岩波文庫)

 

 今まで読んだ中で最高の小説を一冊挙げろと言われたら私は迷わずこれを選ぶ.経緯について今回これ以上は語らない.本には読むべきときがあるのと同様に語るべきときもまたあるのだ.

 

 そういえば一年前のこれから夏休みという時期に,冒頭でふれた友人とルネで出会って「何かいい小説ないですか」と聞かれて勧めたのもこの本であった.彼はこの本を読んだだろうか.そして今どうしているだろうか.

  

*1:よくよく考えるとここで述べたことは電子書籍によっても解消できるかもしれないが利用する気はあまりない,というかいくつか無料のものを持っているが全く活用していない.その理由についてもおいおい記事にできればと思う.