積読家の逆襲

私以外の人が書きえたものなんて無意味なんじゃないか.

田舎の中高生のミクロコスモス

 何気ない個人の回想録が私の誇大妄想への道を切り拓くことがありうる.

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ませりさんの記事を読んで自分の中学生から高校生の頃の音楽体験を思い出してみた.

私は表題にあるようなトイレでの「密輸」というものを経験していない.勿論新譜を買えるような余裕があったわけではない.好きなアーティストの CD は常に歌詞カードも含めて手元に置いておきたい願望があったため,レンタル落ちの商品や中古品を自転車で行ける範囲の店を巡って渉猟していたのである.*1

それでも限られたネットワークを駆使して音源を入手しようとしたこと,

持ち帰られたCDは,まずポータブルCDプレーヤーにセットされる.ライナーノーツを開き,イヤフォンで一曲ずつ丁寧に歌詞を読みながら聴く.その後MDに焼くなり パソコンに取り込むなりする」「手に入れた音源は大切に,何度もリピートして聴いた.歌詞も完璧に覚えた」「CDとライナーノーツを照らし合わせながら、アルバム1枚を通して聴く」

という経験はほぼ同じであった.自分の意思で音楽を聴き始めた頃は家族にも自分の趣向が知られるのが恥ずかしくて,共用の CD コンポではなく幼少期に英語の教材として使っていた変な形の CD プレーヤーにイヤホンを挿して自室に閉じこもり,「儀式」の途中で親から風呂に入れという知らせが来ようものなら酷く気分を害した.のアルバムを一つの世界像として捉え,抽象的な歌詞を何度も反芻して諳んじることができるまでに身体に染み込ませて,自分が体験したことに当てはめてそれを解釈しようとした.そんな解釈を話せる,擦り合わせることができるような人は周囲にいなかったがゆえにインターネットのファンサイトを巡って様々な人の解釈を読み,それらに反論することで更に自分の世界像を強固にしようとした.そんな自分の後ろ姿を想像してみると当時の音楽体験が宗教じみたものに思われてきた.

そしてふと「メノッキオも案外こんな感じだったのではないか」と思い至った.

 

 

チーズとうじ虫―― 16世紀の一粉挽屋の世界像 (始まりの本)

チーズとうじ虫―― 16世紀の一粉挽屋の世界像 (始まりの本)

 

 

 メノッキオ(ことドメニコ・スカンデッラ)とは十六世紀のイタリア,フリウリ地方に生きた粉挽屋の男のことである.この時代は宗教改革と印刷革命の直後であり,宗教上の諸問題や書字文化が民衆にも共有され始めたという時代背景がある.読み書きの能力を身につけたメノッキオは自らのネットワークを駆使して聖書を独自に解釈するようになる.粉挽屋の作業場である水車小屋や風車小屋は民衆が交流する広場の役割を果たしており,書籍の貸し借りをする,人々に自説を語ることで思考を整理するには都合の良い場所であった.ヴェネツィアの書店で聖書の解説書を買うだけの好奇心があり,教会に関わる当時の「教養人」との交流もあったようである.そして支配階級と従属階級の間を行き来する中で,前者の書字文化と後者の口頭伝承を混ぜこぜにした世界像を吹聴するようになる.

私が考え信じるところでは,すべてはカオスである.すなわち土,空気,水,火のすべてが渾然一体となったものである.この全体は次第に塊になっていった.ちょうど牛乳からチーズができるように.そしてチーズの塊からうじ虫が湧き出るように天使たちが出現したのだ.そして至上の聖なるお方は,それらが神であり天使であることを望まれた.これらの天使たちのうちには,それ自身もこの塊から同時に創造された神も含まれている...

 このような世界像を自らの頭の中から引き出した挙句メノッキオは異端審問にかけられ,最終的に火あぶりの刑に処せられる.

 

 

ニーチェの『神は死んだ』のインパクトが日本人には実感としてわからない」と聞いたことがあるが,確かに西欧の人(勿論これも一枚岩ではない)にとっての神(あるいは宗教)とは何なのかを理解するのは容易ではない.リュシアン・フェーヴルが「現代のわれわれが,(中略)温室の産物だということを肝に銘じて忘れまい.十六世紀の人間は吹きっさらしにされていたのである」*2

と言ったように時代まで異なるとなれば安易な共感は禁物である.しかし十六世紀のイタリアという時代的・地理的背景を把握して,メノッキオが読み,書き,語ったものを整理しても判然としないこと,つまり彼が世界をどうみていたのかということ,そして異端審問にかけられてもなお自説を展開するのを止めないまでに彼の信仰を駆り立てたものを理解しようとするなら最後は想像するしかないのである.*3

 

イタリアの田舎で単調な日々を送っていたメノッキオが聖書に耽溺し,毎晩その声を聞きながら反芻することで自らの世界像を作り上げ,周囲に語ることを生きがいとしていたのなら,聖書を CD に置き換えれば私がやっていたこととそう変わらないのではないか.勿論これは妄想の域を出ることではないし確かめようのないことである.しかし再びメノッキオの言葉を借りれば

猊下,各々のものは自分の信仰がもっともすぐれていると思っているのですが,どれがもっともすぐれているかは知ることができない,と私は考えているのです

 

仮に今の中高生がこうして聖書のように CD を聞く経験ができていなかったとすれば,つまりこのような音楽へのアクセスの仕方が私を含む世代に特有のものだったとすれば,実に得難い経験をしたことになる.

 

 

最後に私がなぜメノッキオ,ひいてはギンズブルグの『チーズとうじ虫』に心を動かされたのかを書いておかねばならない.時代の中心から外れた田舎に住む限られたネットワークしか持たないものが書物を自らの偏見に塗れた解読格子を通して読み,そこから自分の頭で考えて世界像を形成したことが『チーズとうじ虫』という大規模な洞察への道を拓いたということは,何物にもなれなかった自分にとって希望に他ならないからである.そして私が今回の記事でやったこともまたメノッキオが聖書に対してやったことと同じ,つまり自説と照応させながら『チーズとうじ虫』を解読格子を通して再読したのである.

お前さんは学者でもないのにそのようなことについて議論して何の役に立つのかね

メノッキオが議論をふっかけた靴屋に言われた言葉である.しかし私の話が何か新しい道を開くきっかけになる可能性が少しでもあるとするならば,それは書くこと,語ることを止める理由にはならないのである.

 

*1:考えてみるとこれは自分の今の書籍に対するスタンスと同じである

*2:

 

フランス・ルネサンスの文明―人間と社会の四つのイメージ (ちくま学芸文庫)

フランス・ルネサンスの文明―人間と社会の四つのイメージ (ちくま学芸文庫)

 

 

*3:そう思うと実際にウィーンで貧乏生活をすることで革命当時の大衆の視点を理解して実際に見たかのように歴史を語った良知の力量は空恐ろしい

 

青きドナウの乱痴気 (平凡社ライブラリー)

青きドナウの乱痴気 (平凡社ライブラリー)